イスタードの知的障害者グループ住宅での出会い

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木骨造りの建物が300も残る町

スウェーデンの南端部にある港町イスタードは、日本ではほとんど知られていない町です。最近はヘニング・マンケルがイスタードの警察を舞台に書いた『ヴァランダー警部シリーズ』で北欧ミステリー・ファンには少し知られるようになりました。でもまあ、駅で高校生が「ニーハオ」と元気に挨拶してくれたから、日本人観光客はまだ少ないと思います。

イギリスのシェークスピア俳優のケネス・ブラナーをご存知の方は多いと思います。2017年に『オリエント急行殺人事件』でジュディ・ディンチ、ジョニー・デッブなどの名優たちを集めて、監督だけでなく、主役のポアロを演じたばかり。彼は40代の終わりにイスタードに行き、BBCテレビ映画『ヴァランダー警部シリーズ』で、ファーストフード太りして、怒りっぽい警部を2008年から6作も演じてきました。イスタードは150本以上の映画が製作されたスウェーデンのハリウッドになりました。著者の遺言で『ヴァランダー警部シリーズ』の製作は終了しましたが、軍隊の跡地に造られた撮影所は残り、活動は続いています。

イスタードはスウェーデンの数少ない古都の一つです。中世の美しい街並みが懐かしい時間を演出してくれます。また、スウェーデン第三の都会マルモとイスタードを往復する電車の旅も、ひなびた町や村落、工場跡、動物たちと暮らす畜産農家や麦畑、ビート畑が次々と展開し、田舎の生活感を堪能させてくれます。

屋根のないイスタード駅

私は古都が好きで、イスタードには何回か足を運びました。でも、まさかここを舞台にした小説が2000万を超す人に読まれるとは思っていませんでした。私が訪れたのは5月から8月で、いつも青空が突き抜けていて、あっけらかんとしていました。ヘニング・マンケルが書いたのは、霧や雨や霜や雪で暗いイスタードです。一人娘は自傷行為のあと家出し、妻は離婚して若い男に走り、認知症の頑固な父との対応に苦労する警部ヴァランダーが、見事に犯人を捜す。そこに読まれる秘密があるのかもしれません。

イスタードの近郊は、スウェーデン人が国中でもっとも暖かい地域と憧れて、移住したり、貸別荘で休暇を過ごします。ヘニング・マンケルも暖かさに惹かれて200km北のボロースから移り住み、南部を舞台に小説を書きました。もっとも彼はずっと南のアフリカ大陸のモザンビークのマプトにも家と劇団を持ち、年の半分はそこで過ごしたそうです。

イスタード近郊の宿泊施設

 

ここはスカンジナビア半島の最南端。この先は海しかありません。暖かさを求めて北から下ってきた人々と、より良い暮らしを求めて南から渡ってきた人たちが交差する地点です。昼間の港にはポーランドのシヴィノウィシチェと往復する夜行フェリーが停泊しています。ヴァランダー警部シリーズ第一作目『殺人者の顔』では、亡命者逗留所も舞台になっています。「手の施しようがないほどの多くの亡命申請者がいる」と書いている。1991年の発行だから、30年前にすでにそういう状態だったのでしょう。移民を襲撃するネオナチのような人も描かれています。

13世紀からの街並み

イスタードはニシン漁の漁民たちがつくった村落で、14世紀にはハンザ同盟に含まれていました。いまも残る修道院や教会、300もの木骨住宅はドイツ人の技術で建てられました。この近海で獲れたニシンはドイツから運ばれてきた岩塩に漬けられて、ドイツや中欧の内陸の地へ売られました。そしてこのあたりの領主は、デンマーク人からスウェーデン人へと変わりました。このためこのスコーネ地方のスウェーデン語は、デンマーク語にかなり近いスコンスカと呼ばれる訛りいっぱいの言語になりました。

1989年に『ペレ』というデンマーク映画が日本で公開されました。貧しいスウェーデン人の農民の父子が、豊かと思われた1880年頃のデンマークのボーンホルム島に仕事を求めて移住し、さらに悲惨な生活を強いられたという暗い話です。ボーンホルム島はイスタードの南東80kmほどに浮かぶ島です。いまもイスタードからボーンホルム島へ毎日5便のフェリーが出ていますが、これは豊かさではなくて、暖かさを求めての移動です。

19世紀末から20世紀半ばにかけての飢饉のときには、スウェーデンからアメリカに130万の人が移民として移っていきました。1900年のスウェーデンの人口は514万、その4分の1にあたる人々が移住していきました。その多くが、スウェーデン南端部に下りてきて、バルト海を南へポーランドやドイツへと渡り、ヨーロッパ大陸を西へと移動していきました。この大移動を描いた映画『移民者たち』は1971年に1部、翌年に2部が公開され、6時間に及ぶ長編ながらスウェーデン人の半分が見たと言われました。私もマルモの満員の映画館で、頑張って最後まで見ました。日本では非公開でした。

その頃、私が働いていたマルモのフランス料理レストランでは、スウェーデン人、フランス人、アイスランド人、ポーランド人、ユーゴスラビア(2018年までに7つに分割。いまのセルビア、クロアチア、スロベニアなど)人、スペイン人、イタリア人、日本人が汗を流していました。違う人たちが一緒になって何かやることが当たり前でした。仕事だけじゃありません。休みの日にはみんなでサッカーをしたり、テニス、ピクニック、釣り、水泳、ドライブ、合コン。コミュニケーションはスウェーデン語、英語、フランス語、身振り。私が辞めた3年後の冬の夜に、レストランが強盗に襲われ、抵抗したフランス人シェフが撃ち殺されて、閉店しました。その後は紆余曲折があったようですが、最近になってドイツ人女性シェフが購入し、2017年にめでたくミシェランの☆を取りました。ドイツといえば、おいしい食事に巡り合えない国の代名詞です。その地で育った人がスウェーデンで、フランスのレストランの権威から褒められました。亡くなったベルナールにいい弔いになったのかな。

ミシェランから☆のBloom-in-the-park

スウェーデンは第二次大戦に参戦しなかったため、当時は戦後の好景気がまだ続いていました。労働者が足りず、フィンランドやノルウェーなどの北欧諸国のみならずポーランドやユーゴなどの東欧諸国、それにイタリアやフランスなどの南欧からも多くの人たちが働きにきていました。日本人でも学生と言えば、何かしら仕事が見つかった時代でした。郊外では、集合住宅の建設が進んでいきました。出稼ぎ労働者たちは、そこでも重要な担い手になっていました。新しい住宅にスウェーデン人が入り、古い住宅に出稼ぎ外国人が入る。1970年に810万だった人口は、2004年に900万になり、2017年1月に1000万を超しました。この13年間に増えた100万のうちの75%が移民・難民だそうです。

イースタッドの人口は3万弱。人間の3%は障害をもって生まれると言われます。障害を持って生まれようとするわけではなく、偶然にそうなってしまう。この数字からすれば、この町には900人くらいの障害者がいるはず。スウェーデンで小さい町の障害者住宅を見たことがなかったので、ミステリー、古都と合わせて訪問することにしました。

今回も天気には恵まれました。私たちを迎えてくれたのは、青空とさわやかな風、この町の学校に通う少女少年たちの弾けるような笑顔でした。

木骨造りの建物が残る

マルモから1時間の電車旅を終え、駅前からのバスで旧市街の外側、かつての城壁に沿って走り、北のはずれの住宅街で降りました。

バス停から10mほどの緑地を入ると知的障害者のグループ住宅と、高齢者の介護付き住宅がありました。イスタード訪問を決め、6か月前から通訳のテルさんにグループ住宅を探してもらいました。あまり視察がないのか、受入れを躊躇するような感じが続き、業を煮やしたテルさんは、6月にここまで足を運んで直談判してくれました。そんなこんなで、無理やり押し掛けるような、ちょっと気が重い視察でした。

住宅の玄関の前に着く前に、ドアが開き、中年の男性が現れました。続いて、中年の女性も。男性はここの施設長のオーレさん、女性はイスタード自治体の障害者支援部門の責任者のアンネさん。「どうぞ、どうぞ」と招かれて中に入ると、利用者のエマさん、アンダースさん、数人のスタッフがニコニコ顔で歓迎してくれました。それを地元の新聞社の記者が撮影しと、まあ予想とは大違い。

まずアンネさんから、スウェーデンの障害者がどのような扱いを受けて、今に至っているかの説明から始まりました。自治体の責任者が直接話してくれるなんて、予想もしていないことでした。それを利用者、スタッフが私たちと一緒になって聞く。責任者が嘘を言ったら、利用者が抗議できる民主主義。

住宅の説明開始。向かって左端がエマさん

・知的障害者は1900年代はじめから施設に強制的に入所させられ、社会生活から隔離されていた。 ・1968年にになってようやく教育を受ける権利が保障され、介護、住居、労働も権利として認められるようになった。住居も台所、トイレ・シャワーがついた個人のアパートが持てるようになった。アパートが5~8宅まとまったグループ住宅ができ、職員が支援してくれるようになった。 ・1994年に、L(権利)S(サービス)S(サポート)法(機能障害者を対象とする援助及びサービスに関する法律)ができ、障害者の権利が明記されました。 ・「障害者個人の希望にあわせる」こと「障害者が健常者と同じように生きられること」 ・LSS法を適用するには3つの要件がある。   ①知的障害者と自閉症、②高次脳機能障害者、③重い機能障害のある人

こうしてここにいるエマ、アンダースには、住まい、パーソナルアシスタントが保障されました。このグループ住宅には8つのアパートがあります。それぞれLSS法に従って45㎡の個宅面積と共有スペースがあります。イスタードには10か所のグループ住宅があり、5~6戸の「アパート」がグループになっています。

ここでオーレ施設長に引継ぎました。その前に余談。北欧では、男性の施設長にはなかなか出会えません。先日、中公新書『仕事と家族』で「英米に比べて、北欧諸国では管理職についている女性の割合は低い」という2006年頃の調査結果を読んで、腑に落ちないものを感じていました。「そんなことはない、北欧の福祉施設では女性施設長だらけで、めったに男性に出会えない」といいたかったが、ここで出会ってしまいました。ついでですが、北欧では施設長は専門職で、オーレ氏は5つの障害者住宅の施設長です。2006年頃の調査ではそのあたりはどう計算したのかな。

・ここは2009年開設で、8人の入居者に対して、スタッフは9人。夜勤が一人いて、24時間体制で支援しています。アパートで困ったことがあれば、電話をくれればすぐに駆けつけます。

・利用者の多くは日中はデイセンターに通っている。週に一日、洗濯したり、銀行で支払いや引出しし、自由に買い物したり、日常生活的な仕事を処理する日がある。

ミステリーが似合う街?

ようやくうずうずしていたエマさんの番がきました。「私はエマ・ニーストロール、33歳の機能障害者。ウィリアム・シンドロームという障害を持っています。2万人に1人くらい発生する染色体異常です。私は軽いほう。あだ名は”愛情いっぱいの人”」。そして爆発しそうな顔になって告白してくれました。「GACKT 大好き!!!」。どよめく私たち。顔を見合わせる。NHKによく出るシンガーソングライターだ。「歌がすごーくいい。私は肺に血栓があり、肺炎に何度かなり、二度ほど死にかけたけど、GACKTのスピリットが救ってくれました。だから、私、今日はとっても幸せ。日本の人がこんなに来てくれるなんて、嬉しい」。GACKTありがとう。君のおかげで、ぼくたち歓迎された。日本に帰ったら聴くよ。ううん、大丈夫、ぼくだってロック少年だったこともあったんだから。

「この住宅もすごーくいい。スタッフは私を障害者としてではなく、ふつうの人として接してくれます。子どもの頃は、里親に預けられてきました。嫌な人たちが多かった。3回変えてもらって、4回目に暮らしたイスタードの里親がとてもいい人たちでした。19歳で高校を卒業させてくれたし、8年前に独立するときにこの住宅を探し出してくれたんです」 エマさん、泣きだしちゃいました。

実は私の頭脳はそれどころではなかったのです。長い間、北欧で視察を続けてきましたが、里子が自分の体験を話してくれた言葉を聞いたのはこれが初めてでした。これまでスウェーデンで何度も里子から体験を聞こうとしましたが、了解してくれる人に出会うことができなかった。障害がある子どもは育てたくないという親はスウェーデンにもいる。精神障害がある親の子、親から虐待を受けて育ち、親になって虐待しないではいられない人の子どもなど、事情は様々だが、実の親から離れて育たねばならない子どもたちがいるのはどこの国でも同じ。スウェーデン政府は、施設は子どもにとってよくないと判断し、乳児院や児童養護施設を廃止しました。いまでは、実の親が育てられない子どもを育ててくれるのは里親しかいません。実の親子だって次々から次へと問題が発生するけど、擬似家族はその何倍もむずかしい。でも子どもは一人では生きていけない。里親と里子はどうしたらぶつかり合いを減らして暮らしていけるのだろうか。その疑問へのひとつの答えをエマさんが与えてくれました。つらいこともあった、だけど、いまは幸せになれた。里親の成り手は少ない。里親制度を守るため、里子が苦しんでいても、あなた一人のわがままは許せないと抑え込まれがちだ。スウェーデンでは、里子から心の苦痛が訴えられれば、すぐに、あるいはなんとか対応してくれる。里親制度の目的は、里子を幸せに育てること。3回変わって、4回目で自分にぴったりの里親に出会えた。うまくいかない家庭にはこだわらず、うまくいく家庭を求めてどんどん変えていく。それは一つの方法なのでしょう。里子が悩んでいるなら無理に続けさせることはない、リストの次の人は誰と、キーボードを叩くあっせん担当者の姿が目に浮かびました。いつまでもずるずるに引き伸ばすより、すぐに次を探す。打てないバッターは代打を出し、打たれるピッチャーは交代させる。思い切りよくできる監督が勝つ。交代要員もしっかり養成している。少子の時代、一人の子どもも虐待死や自殺に追い込んではいけない。そういう意気込みがエマさんの笑顔から学べました。

また余談です。1970年頃の北欧では、子どもがいない夫婦が韓国やベトナム、スリランカ、インドなどから養子をもらうことができる制度がありました。いまも私が通訳をお願いする看護師は、当時、韓国からの里子たちをコペンハーゲンへ運ぶチームで医療を担当していました。私が働いていたレストランの同僚たちを、退職後13年たって訪ねた時、3組の夫婦がインド、スリランカ、ベトナムからの養子を育てていました。そのひと組の夫婦の家で、私たちの3歳の娘がインドからの養子のサナに会ったとき、こんなに淡い色の人たちの幼子が、どうしてこんなに濃い色なのかなとはじめはとまどっていましたが、5分後には一緒に遊んでいました。

イスタードだけでなく、スウェーデンの南部は、人が住み始めて以来、交易、戦争、亡命などから、違う人たちとの接触になれてきました。その中で多くの差別、区別、排除、結婚、結束、連帯が繰り返されてきたのでしょう。ここの人たちは、違う人たちがいることに慣れている。あまり抵抗を感じない。存在を認める。受け入れる。排除しない。異民族の子どもであっても、養子として受け入れる。障害がある人たちも、自然に受け入れられる。

エマさんのアパートの居間

エマさんが2階の自分のアパートを見せてくれました。45㎡でシャワー・トイレ付、寝室に居間、キッチンもあります。ガラスや磁器の人形、鉢植えなどで飾った簡潔なインテリアが彼女らしいと思いました。

「料理は自分でやります。夜は簡単な肉団子、ハンバーグ、パスタもつくる」 「ミンチソースのパスタが好き。お菓子を焼くのも得意」 「先日は友だちが泊まっていった」  どなたかが自治体の責任者のアンネさんに質問しました。「こんなに広いアパートで暮らせて、支援もつく障害者を、イスタードの人たちは、ぜいたくすぎると言わないのですか? 」

通訳を聞いてアンネさん、一つ頷いて答えました。「ここに住む障害者はどんなに努力しても、一生この程度の広さの家にしか住めません。障害のない人は、努力すれば、ここより5倍も大きい家に住むことができるかもしれません」  何気ない質問にも、論理的な裏付けがある回答をしてくれます。しっかりとした論理の上での障害者支援になっていると感心しました。

ヴァーランダ警部に魅かれ、小さな自治体で、小さなグループ住宅を見ただけでしたが、すごーく多くのテーマを考えることができ、みなさんに感謝しています 。

住宅前でお別れの挨拶。右側に並ぶのは住民各自の郵便受け

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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